だれでもよく知っている聖句、マタイ福音書七章7節に、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。痩せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」と言われたみ言を見れば、すべてのことが神の予定のみによってなされるのではなく、人間の努力によっても左右されるということが分かるのである。もしすべてのみの成就が、神の予定によってのみなされるのであれば、何のために人間の努力を強調する必要があるであろうか。 ヤコブ書五章11節に、病んでいる者は祈ってもらうがよいというみ言があるのを見れば病むことも、また、治ることも、やはり、みな神の予定のみによってなされるのではないということが分かる。もし、すべてのことが、神の予定の中で、避けることのできない運命として決定されるのだとすれば、人間は苦労して祈祷する必要もないであろう。従来の予定説をそのまま認めれば、祈祷とか、伝道とか、慈善行為など人間のすべての勢力は、神の復帰摂理にとってなんらの助けにもならないし、全く無意味なことといわなければなるまい。なぜならば、絶対者たる神が予定されたことであれば、それもやはり、絶対的であるがゆえに、人間の努力によっては、変更できないからである。